聖霊のバプテスマは、
一部で誤解誤用があるように、救いの条件ではありません。
また、異言や預言などの
御霊の現われとしての御霊の賜物じたいですらありません。
聖霊のバプテスマは、
聖書では
「聖霊の満たし」
とか
「聖霊が上に臨まれる」
とも
表現されています。
私たちは、
神の御子イエス・キリストを心に信じ、
口で告白することによって、
神の子どもとされ、救われます。
私たちの罪のために身代わりとなって十字架に死なれ、
三日後によみがえられ、
今、天の神の右の座に座して、
生きて働いておられることを信じ受け取ることを通して、
私たちの罪は赦され、
日々、罪を悔い改め、きよめられるものとされるのです。
そして、救われ、教会のみからだにつながり、
クリスチャンとして信仰の歩みをなしていくにあたって、
私たちは水のバプテスマを受けます。
水のバプテスマは「洗礼」といわれるもので、
これを通して、救われた者は、
信仰の歩みの開始を、
神に対して、
自分に対して、人に対して、そして、
サタン、悪霊に対して、
公に告白し、宣言するです。
洗礼を受けて、
私たちは救われるのではありません。
たしかに、主がそのようにするようにと教えられた
たいせつなことがらですが、
救いの条件となるものではありません。
むしろ、それは、救われた結果、
受けるものです。
バプテスマとは
「浸す」という意味です。
水のバプテスマ、洗礼をもって、
私たちは神のきよめと洗いの中に浸され、
私たちの古い自分は、
キリストとともに十字架につけられて、 葬られ、
キリストとともに復活した新しいいのちの歩みをなすことを
表しています。
それは、神の小羊、イエス・キリストが十字架で流された
罪けがれない尊い血潮に浸され、洗われ、きよめられた
私たちの霊の救いを象徴するものです。
それと同じように、
聖霊のバプテスマも
救いの条件ではありません。
私たちは、イエス・キリストを信じたならば、
必ず、聖霊さまが内に来て、住まわれることになります。
もはや、自分が生きているという古い歩みから、
神ととともに歩む歩みに、
内住しておられる聖霊さまとともに歩む歩みに
変えられているのです。
聖霊さまの内住は、救われた人全員に与えられるものです。
救われたクリスチャンすべてに聖霊さまはおられます。
聖霊のバプテスマを受けた人にはじめて聖霊さまが来られるわけではありません。
聖霊の内住と
聖霊の満たし(聖霊のバプテスマ)とは
別のことがらなのです。
聖霊が内に来られたクリスチャンは、
聖霊を受けるのはただ一度ですが、
聖霊の満たしは何度でも求めてよいし、
何度でも聖霊に満たされることができます。
そして、御霊の満たし、聖霊のバプテスマは
「奉仕」「働き」と大きく関係があります。
御霊の満たしは、感情の高揚だけのためにあるのではありません。
たしかに、 ゆたかな主との交わりの感情をともなうことが多いのですが、
聖書からも体験からも、
御霊の満たしは 感情の高揚だけではないことがわかります。
御霊の満たしによって、
私たちは、信仰が強められ、奉仕が強められ、
そして、しるしと不思議なわざに関わるようになります。
聖書が記しているとおりです。
御霊の満たし、聖霊のバプテスマによって、
教会のみからだに与えられた
御霊の賜物が個人個人に開かれるようになります。
私たちは教会のみからだを構成する一つひとつの「器官」として、
神の働きを担うようになるのです。
それは、人間の力、肉の努力ではなく、
ただ、御霊の導きと力によるものです。
私たちは、
いつも御霊に満たされて歩んで行きたいものです。
御霊に満たされ、御霊に導かれて、
ともに歩んでいきましょう。
聖霊のバプテスマについて、くわしくは、
「カリスマ」
のページを参照してください
The Light of Eternal Agape(TLEA)総合ホームページの
クリスチャン、カリスマとたどったページです
さらに詳しくは、
パウロ秋元牧師著『預言』『カリスマ宣言』(雲の間にある虹出版)
をご参照ください